20160108
あけましておめでとうございます。
結果として1日中休めた日は一日もなく、たいそうな疲れだけ残して12月は終わりました。
あれから一週間、毎日母の面会に行ってます。
リハビリのおかげで足はなんとか動いて歩く練習もしてるんですが、左手はダメです。同じようにリハビリしているんですがほとんど動きません。
また、次に脳梗塞が起きたら、先生は「一+一は二ではない」と言ったらしく、その不安も残ります。
そんなこんなな母ですが、このまま順調に回復してもらいたいものです。
んで、今年始まってすぐ、ある、初めての場所に行きました。
会社の方数人とキャバクラに!
1人に1人ずつ座ってもらったんですが、
自分の隣に座って頂いた女性の方はとても美人で、髪が長く、とてもスラッとしたきれいな方でした。
その方は朝から違う仕事で働いていたらしく、声も枯れて、疲れはてていらした感じだったので、
どうしたら彼女のためになるか考え、あまり気を使ってもらわないように振る舞ったつもりでしたが、どうだったかわかりません。
どうしたらよかったのか、今も考えています。
すっと沈黙が続く時間も長くて、反省することばかりです。
しかし、キャバクラなりホストなりにハマってしまうということの理由がわかりました。
異性、特にキラキラ輝いた異性と話すということは、自らの見識を深めると同時に、精神的な疲れに対する癒やしに繋がり、満足感が生まれます。
だからもっともっとと、求めてしまうんだなと。
自分も、今回出会った方は本当に感じの良い、素晴らしい女性だと思ったので、もう一度会いたいと思いました(でも自分独りではキャバクラにいけそうにない)。
なにか少し自信をもらった気がします。
2016年の正月でした。
20151220
12月に入り、掛け持ちしてる仕事が共に繁盛期を迎え、さらに母の病院にほぼ毎日行ってるので、忙しすぎてなにがなんだかわからないまま20日経ちました。
この後休みという休みは1日しかなく、やっぱりこの後も忙しい。
しかし、後10日だけ。
なんとか乗りきろうと思ってます。
母はその後、1日三回ほどあるリハビリのおかけで左足は左手に比べると力が入るようになり、支えながら歩けるようになりました。
そんなリハビリ中の母をみていると、自分のこれまでの母に対する言動やらなにやらを猛烈に反省し、後悔し、泣きたくなってきます。
母が倒れて二、三日の死にたい気持ちは、忙しいことのおかげで無くなりましたが、ふとした瞬間に蘇るので、気をつけなければなりません。
これからも自分にはなにができるのか、母に何をしてあげれるのか考えてたら、できるだけ毎日顔を見に行くことだと思ってます。
あと、同じくらい大事なのが、父に対するフォローというか、態度、対応だなと常々感じながら、明日もなんとかいきますか。
20151129
弟と二人で面会に行きました。
母は左足の感覚が手よりはあるそうで、感覚があるってことは、治る可能性があるんだって、思うんですが、先生に話を聞けてないのでわかりません。
母に良いことを考えた?って聞いたら、仕事をしなくてすむのがいいことだって言ってました。
そういえば、仕事仲間が心配してると言ったら浮かない顔(たぶん)をしたので、そこは気にしてるのかもしれません。
親戚の口が達者でとても面白いおじさんがいるのですが、その人も同じく脳梗塞になって、元気になったのでそのおじさんの話をして、病気になってさらに口はキレキレになったやんかと言ったら笑ってくれました。それは本当に嬉かった。
しかし、3日経って自分が思ったのは正直これから生きるの辛いなってことです。母がではなく、自分がです。いろいろ考えることやしなきゃいけないことがありすぎて、なんだか辛い。でも、大切な人を無くす悲しみや辛さは今回初めてとても感じたので、自分がいなくなって母をそんな気持ちにするわけにはいかない。それこそ本当に辛い。ああ、だから無理心中や一家心中が起きるのか…と初めて理解できました。
もちろん、これからも精一杯生きていくつもりですが、そう思ったことは、これからの人生でのなにかしらのかてになるんだろうと。
日本でも人気のアメリカのドラマ、ウォーキングデッドのシーズン6最新話で、こんな話がありました。
ゾンビによって崩壊した世界で、恐いのはゾンビだけではなく、むしろ生きている他の人間です。
主人公のいる街の人たちを何の理由もなくいきなり襲った人間達を撃退した主人公の仲間のうちの一人が、そんな自分たちを殺そうとしたそいつらを逃がしました。
主人公はその仲間を詰問します。
なぜ奴らを殺さなかったのか。また違う人を殺すかもしれないし、もどってきてまた殺すかもしれないと。
しかし、仲間は答えます。
何が正解なのかわからない。彼らを殺したかったが、殺さないことで、将来、自分たちが救われるかもしれない。
なにもわからないんだと。
私の好きな言葉は人生観万事塞翁が馬です。
良いことがわるいことにつながるかもしれないし、悪いことがいいことにつながるかもしれない。
人生何があるかわからず、物事を一概に良い、悪いと決めつけることはできない。
確かにその出来事だけを考えれば必ず悪いと言い切れることはたくさんあります。
フランスのテロだったり、東日本大震災だったり。
でも、その出来事からつながって起きるできごと全てが悪いことではありません。
テロが起きて、警備体制が厳しくなったから、さらに大きいテロが起きずにすんだかもしれない。テロによって、世界中の結束がつながり、ISに対してより強固な対応ができるようになるかもしれない。
地震によって、そのまま生きていれば絶対に会わなかっただろうと言う人と出逢って、絆が生まれたかもしれないし、防災への意識が変わったかもしれない。
忘れてはならないことは、良いことにつながるということは、悪いことにもつながるかもしれないということですが、
しかし、どんな出来事でも一方からではなく、見方を変えるということが大事です。
物事がどうなるかわからないし、物事はいろんな見方をする事ができる。
よくわからなくなってきましたが、誰にも言えないから、このブログに綴っております。
20151128
バイト終わりに初めて面会に行きました。
本当はこわくてどうしようか迷ってたんですが、母はなぜ俺だけ来ないのか、会いたいのにと思ってくれていると考え、また、自分ときちんと向き合うために行きました。
リカバリールームのガラス越しに見た母は、目をつぶって寝てるようでしたが、自分が部屋に入ると気がつきました。
家に帰りたい
と初っぱなに言われて、たくさんはなすことがあったのに忘れてしまいました。
体の不自由のせいか、あまりこっちを見てくれませんでした。
みんな心配してるとか言ってるうちになんとか落ち着きを取り戻したつもりでしたが、母の鼻かみの手伝いとタンを出す手伝いをして、こんなことするの初めてやな…とおもったりして。
しかし、いろんなことを考えているみたいで、頭はすごく働いているようでした。それは安心しました。
トイレに倒れて情けなかったとかいうので、そんなことはない、便器はほぼ新品できれいやってんからよかったやないかと、良かってんでと。弟も帰ってきてくれたし、よかったやないかと。
良いことをたくさん考えるんやで、良いことをな、と言って、母が好きなツムツムのハートを集めておくからと言ったら、少し嬉しそうにしてました。
帰り際、ガラス越しにこちらをじっとみる母と目があって、それはいつもの母のように感じました。
20151126
運良く病院がバイト先からすぐ近くだったので向かいました。
気分が悪くなりトイレで吐いて倒れてたところを弟が発見し救急車で病院へ。
母の倒れた正確な時間がわからず、副作用がこわい血栓溶解剤は使いませんでした。従来からの血液をサラサラにする薬を入れた点滴を入れてもらいました。
薬が効くかどうかは二、三日かかるそうです。
リカバリールームという部屋に行くときにベッドに横たわった母を見たんですが、そこには今朝までの母ではなく、自分達をみたせいか、自分の置かれた状況がわかってないのか驚いた表情で、少し口元がゆがんでいました。
なんというか、その瞬間が一番つらかったです。
まだ母の脳梗塞の具合はわかりません。これから薬が効いてくれればいいですが、効かなければ、死んだ脳が頭蓋内で腫れて、最悪の場合死にます。
悪いことはたくさんありますが、自分は良かったことをたくさん考えたいとおもってます。
なぜなら、タラレバを考え始めたら負のスパイラルに落ちて、自分はダメになってしまうからです。
母は倒れたときから意識はずっとあったみたいですが、嘔吐をして、それが気管に詰まり、窒息しなかったのが本当によかった。
弟が夜勤明けできちんと帰ってきてくれ、気が動転しながらもきちんと母を助けて救急車を呼んでくれたのが本当によかった。
バイト先が病院に近くて、午後も仕事があったのにすぐに帰らせてくれて本当によかった。
父もすぐに帰ってきてくれて本当によかった。
トイレの便器が先月変えたばかりで新品同然で良かった。
母の仕事先の人と自分が知り合いで、話しやすくて良かった。
近くにすむ祖父母が元気で良かった。
本格的に寒くなる前で良かった。
父や弟がいてくれて良かった。
自分が母の近くにいて良かった。
母をほんとうに心配して祈ってくれる人が多くて良かった。
親より先に死ぬのは一番の親不孝だと言っている母の母、つまり祖母が生きていてくれて良かった。
母はツムツムがすきです。暇さえあればやっていました。母がまたツムツムができるようになってほしい。そのために母のツムツムにハートをたくさん送って、たくさんためておきます。
20151123 くるまこわい
車の運転をするようになって一年半ほどたったが、やはり、車の運転ほど身近で人を殺せるものはほかにはないと思う。
テロもたいがいこわいもので、対岸の火事ではないと常々思ってはいるが、しかし、車の運転ほど身近ではない。
運転はこわい。ほんとうにこわい。
少しハンドルを切り損ねるだけで、
アクセルと、ブレーキを踏み損ねるだけで、
少し安全確認を怠るだけで、
時に自分だけではない、他人を巻き込んだ事故になり、自分の人生をめちゃくちゃにして、他人の人生もめちゃくちゃにする可能性があるのだ。
そんなことを常に考えながら運転していれば、スピードを出し過ぎることはなくなるし、一時停止を守るし、ウインカーもきちんと出して、また、譲り合いの気持ちも生まれるもんだと思う。
車はとんでもなく便利なもので、生活に必要不可欠と思えば思うほど、安全運転の意識は高くなってしかるべきではないだろうか…。