いろいろ繋がります。
近所には父の叔父夫婦が住んでいます。
九州生まれの父は、関西に住む叔父夫婦を頼って関西にきて、結婚し、それ以来ずっと頼り頼られ生活してきました。
その後産まれた私たち兄弟にとっては父の叔父夫婦は祖父母みたいなものというか、そうです。
(ということで、以下、祖父、祖母と呼びます。)
というのも、祖父母には子どもがいないからです。
今日、なぜ子どもがいないのかの理由のうちの一つがわかりました。
祖父は戦前、中学校のころに、精子の検査を受けたそうです。
その時に精子の数が少ないと言われたそうです。
しかし、そのことを思い出したのは定年後らしく、気がついたときにはもう遅かったんです。
それが、子どもができなかった原因の一つだったみたいです。
折しも、先日、中国嫁日記の第四巻に作者が男性の不妊治療のことで書いているのを読んでいました。
作者もまた、精子が少ないそうで、男性の不妊治療の大事さを訴えておられました。
(祖父母の話はまた書きたいと思います。最近はその介護で…もまた今度。)
以下本題
何というか、
“どこかで起きていること”
のどこかは、遠くのことではなく、いくらでも身近なこと何だなと言うことを改めて認識しました。
震災のとき、私は東京にいましたが、直後は
“東京ではない、東北で起こったこと”
思ってましたが、
そうではなかったんです。
去年、夏の日によく起きる事件、子どもが川で流されたというニュースが流れました。
親戚の男の子でした(無事助かりました)。
たぶん、この世で起こることのすべては“対岸の火事”ではなく、“こっちの火事”なんだと考えるべきなんです。
だけど、
火事を起こさないよう予防する事もできるし、
火事が起こりそうなら早く気づいて起きないようにすればいいし、
火事が起きたら冷静に対応して、消火すればいいし、
火事がおさまれば、その次の火事を起こさないよう対策を立てて、
…
大事なことは、
「わたし(に起こる)かもしれはい」
と考えて行動することかもしれません。
「私は関係ない」と言えることはほとんどないのかもしれません。